ねじの歴史

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ねじ生産の始まり

ねじドンゴロス
日本におけるねじの始まりが種子島に伝わった火縄銃であることは業界の常識である。しかし、現在の文化、文明の基礎を築き上げたと言われる 江戸時代にねじの製造技術はほとんど進化していない。江戸時代の工業製品にねじが使われた形跡はなく、鉄砲製作に使用するねじ(尾栓)に しても、種子島でコピーしたまま、さほどの改良はなされていない。ゆえに徳川三百年は「無ねじ文化」と呼ばれている。

ねじの生産の歴史は千八百六十年(万延元年)小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)が海外(多分アメリカ)から持ち帰った一本の ねじから再スタートする。この人物は江戸幕府のいわば外務大臣のような仕事をしたのであった。

ここからねじの国産化が始まった、と言いたいところだか、生産技術がいきなり世界レベルに追い付けるはずもなく、しばらくは輸入品が幅をきかせた。 素材の中心であった鉄の品質向上、何よりねじを加工する機械の発達を経て、本格的な国産化は昭和に入ってから始まる。 また、江戸時代に発達した問屋は我が国独特の制度といえる。一般的には卸売業である。一方、商社というのは前述の小栗上野介が英語の[company]を 訳した言葉で、商業上の結社、仲間つまり会社の意になる。元々、貿易関連の会社でよく使われていた名前だが、現在では問屋も商社も、流通の中で 卸売りを担う役割という意味では同じで、区別は難しい。ねじの場合は「ねじ問屋」よりも「ねじ商社」という方が多いのだが、扱いの始まりが輸入で あったことが関係しているのかどうかは定かではない。



ねじの扱いの始まり

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関西におけるねじ商社の始まりは明治十年、堂島の林音吉商店が英国バーミンガムのネットフォールト社から輸入して販売したことに起点する。

商売としてうまみの少ないねじは付属品的な扱いだった。ところが、需要の拡大は続く一方で、順次アメリカ、スイス、ドイツ製品も輸入され始めた。 また、現在の老舗のねじ商社も、多くが大正から昭和初期にかけて、林音吉商店の系列から独立している。それでも、やはり主役は工具。輸入ねじは 運賃が製品価格の30%もかかり、当然国産化が要求されたが、材料、技術共に国内ではおぼつかず、コストは高く、粗悪品であったという。

昭和十年ころまでは輸入品が幅を利かせていた。とはいっても、問題も多かった。ねじの山の角度の違いなど、よく知られていると思うが、修理パーツ として使用する場合は、世界各国の基準が異なるため、大変困ったそうである。

昭和に入ってから徐々に勢いづいていったねじの国産化だが、戦後、勢いはさらに加速する。そこには多くの技術者たちの努力があった。特にねじ加工機 である旋盤などの機械工業の技術革新には目覚ましいものがあったと思われる。そしてボルト・ナットなどのねじ類を含め、鉄鋼二次・三次製品生産の中心 となったのは大阪であった。

昭和十三年に先発ねじ商社を中心に大阪鋲螺卸商業組合(組合員約50名)が誕生。戦争などの紆余曲折を経て、現在の大阪鋲螺卸商業組合となるが、 全国のねじの呼称統一など、数々の功績を残している。第一ボールトも昭和四十五年に参加、小林良三は以後、数々の役員を務め、五十一年には副理事長に 就任している。現在では組合員数が100社を超え、ねじ産業発展に大きな役割を担っている。